「ギンネム屋敷」について
大学の講義で又吉 栄喜「ギンネム屋敷」を読み、提出したコメントの記録です。
作中のサバルタンとしてはヨシコー、小莉、幽霊屋敷の朝鮮人などが挙げられる。彼らの言葉が封じられた背景としては、ヨシコーは女性でかつ「知恵遅れ」であること、小莉は女性であることに加え、今となっては死者であること、朝鮮人は被差別者であり、死者となったことがあると考えた。
ヨシコーは語れないし、語らせてもらえない。朝鮮人の屋敷で起きた事件についてはもちろん、性的な出来事についてもあれやこれやと男たちに好き勝手、一方的に推測されるのみである。屋敷の事件については物語の結末で勇吉によって証言されてようやく真実がわかるが、おじいとの肉体関係については曖昧なまま終わる。これだけヨシコーの謎が物語の中心部分に据えられているにも関わらず、ヨシコーは無口なまま。同じく女性のツルや春子もサバルタンだが、ヨシコーの場合は加えて「知恵遅れ」というレッテルもある。
小莉は死者だから、朝鮮人の記憶の中にいる小莉だけが語ることができる。しかし、朝鮮人を通して語られる小莉は、朝鮮人を通して語られる小莉でしかない。朝鮮人に語られた小莉は得体の知れない不気味な人物としてのみ認識される。しかも、最期には男の力によって語れぬまま屈服させられた。この物語で最も徹底的に語ることを許されなかったのは彼女だと感じる。
朝鮮人については、遺産を残した理由が宮城の想像によってのみ語られる。そもそも、朝鮮人が宮城のことを覚えていただろうということも宮城の推測の域を出ない。死者という点では屋敷の下に埋まった骨や宮城の息子も、自ら語ることができない人々である。
どこまでがこの物語の真実で、どこからが作中人物の妄想なのか境界が曖昧で、読後には戦後沖縄の強烈な空気感に圧倒されると同時に、ふわふわとした不思議な感覚に包まれた。サバルタンのいる物語では何が真実なのか知ることができない。「語り手にとっての真実」が「真実」になるのだろう。
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