『隠された記憶』(2005)を鑑賞した感想

フランス映画の『隠された記憶』を観た。以下、考えたこと。


ジョルジュは送られてきた不気味な絵がトリガーとなって、鶏の首を斬っている少年が斧を持って迫ってくる悪夢を見る。夢は記憶と妄想で構成されており、彼の罪悪感を浮き彫りにしている。そして、この罪悪感は外界への態度として露骨に表れている。過去について妻に追及されても「覚えていない」の一点張りなのは、覚えていないからではなく、覚えていたくないからではないか。罪悪感があるからアルジェリア人を疑うのではないか。

ここで、罪悪感と記憶というワードから、小林勝『蹄の割れたもの』の河野が思い出された。忌々しい記憶に悩まされるという点で、ジョルジュと共通している。では、二人を比較するとどうか。まず、河野は朝鮮人への罪悪感と、故郷を追い出されたことによる喪失感を抱えている。罪悪感があるので、喪失感をはっきりとした憎しみにまで転化させることはできない。朝鮮人に直接それをぶつけることもできず、心の内で葛藤している。それに対して、ジョルジュは罪悪感を異常な猜疑心と嫌悪へ変えた。記憶を封印し、終始攻撃的な態度を見せている。ジョルジュにとって記憶の封印は自己を守る手段だ。河野とジョルジュには、罪悪感との付き合い方という面で差異がある。また、フランス人とアルジェリア人という関係性からジョルジュは圧倒的に強者だからこそ、記憶を封印することも不安を押し付けることも許されるのだろう。

ラストシーンで二人の息子が以前からの友人のように振舞っていたのは、父親を失った息子による復讐の伏線という見方もできるが、記憶に囚われた親との対比として、息子たちの間には絆があるのだと信じたい。

視聴後には映画全体から懐かしさを感じ、劇伴が無いからだと気がついた。まるで自分の記憶を再生した時のような無音。緊迫感を生むだけでなく、記憶という作品のテーマと観客をリンクさせる効果的な演出だと思う。

夕影巴絵

ゆうかげともえ、と読みます。

哀感パヴァーヌ

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